当事者としての目線で思う事

当事者というのをしばらく全面的に出すのもどうかなとおもいつつ、あまり言わないようにはしてたのだけれども、なんとなく本当に生きづらい人達が多くなってきたなあと思うのです。

 

熱意があっても仕事がうまくいかなかったり、甘えだと言われて心が折れてしまったり、そういう心の問題が理解しきれないとこもあったり、障害者という目線で言うなれば理解してほしいという気持ちもわからなくはないし、ある程度の自己正当化は必要だとはおもう、まあこれは僕個人の考え方なので正しいかどうかなんて見た人が決めたらいい。

 

障害者は個性だという意識が蔓延したらいいなとは思うけれどもそこらへんの意識の改革は難しいなあとはおもう、でも出来ないわけじゃないとはおもうし、ある種の自由に繋がれるコミュニティがあればそれはそれで上手くサポートが効いて変わっていけるんじゃないだろうか?とも思う。

 

僕は基本的に人が嫌がる事が理解できない質だったので、それも何度も経験してある程度の距離感は学べたかなあと思う。人の意見に振り回されるなとは言うけれど、その価値観もまたある種の正解も宿っているので振り回されるのもたまにはいいと思う。

 

障害者だからといって風俗いっちゃだめという事はないだろうし、それは健常者にも言える事で言葉が通じてきちんと考えて行動できる人であればそれでいいだろうし、仕事に関しても色々と適正があることがあれば長続きできるだろうし、基本的に僕は長く仕事は出来なかったけど、それでもトライは諦めてないので、出来る事ならイベント系で稼げたらいいと考えてはいますけど、社会的な経験も足りないと思ってるのでハローワークにはいってます。

 

全てに何かきっかけをなんて出来るのは難しいかもしれないけれど、きっかけを一緒に感じた人とは何かが出来るのかなあとは感じてます。

 

個人で出来る事はすごく少ないんだなあと感じたので、少しずつ共感できる人と何かをしていけば結果は見えてくるのかなとも考えましたね

 

少なくとも毎日ブログを書いたりなんだりすることはしていこうかなとそこで僕がしたい事を感じてもらえたらいいなと思います。

 

正直な話詩では伝わるけど日常会話が伝わらないという事も多いので、そこらへんを考えていけたらいいかなあとも思う。

 

僕の作品が嫌いな人もいれば好きな人もいるし、障害者を全否定な人もいるし肯定的な人もいる、様々な感性を持つ人がいれば感性を否定する人もいる。

 

色んな観点で生きれたらそれでいいんじゃないかなあとおもう。

 

性的な事がわからなければ経験できるとこにいけばいいし、常識的な事がわからなければ人に混ざって取得すればいいし、ちゃんとできる事をすればいいなあとも思う。

 

まあ今頑張ってるといっても一般的にはあまり頑張れてないなのかもしれないけれど、少なくとも生きているだけで意味があるなと思うのでそこでなにかきっかけがあればいいのかなと。

 

受動的でも能動的でもどちらでもいいから行動していけば何かはなるなあとはおもいます。