障害者というだけでただの優遇処置をもらっているというのは違うよね

僕も社会に生かされている身なのでそうそう言えないけれども、障害は障害でいいと思う、開示するのもしないのも自由だけれども。

 

やめるのもどうするかも自由、それは僕ら生きにくさを抱えているわけだからさ、それはそれでいいと思うよ。

 

生きていけるならば働かない選択もまああるだろうし、世の中支えてくれる所や不労所得もあるわけだからさ、僕も就活がうまくいってないけども、安定しないからツイキャスしちゃってるとこもあるけどね。

 

別の息抜きもあればそれでいいけどね、ただ思うのは障害者というピックアップで健常と呼ばれる人達の苦労がおざなりにされている感もあるからね。

 

そこんとこはどうなのか、一般職というのは多分だけど一人の人材を育成するのに色々な予算を組んで色々な経費や払わなければいけないお金を入れて最初からだと20万近くかかると思うんだ(不勉強なら申し訳ない)

 

そこにハンデを抱えた人が現れて同じ程度の予算をかけて保証されたら聖人君子でない限りは良い感情は生まれないと思う。

 

常識的にね、社会的な要素として障害者支援は当事者としても必要だと思うし、同程度の給料が保証されるならありがたいと思う。

 

勿論障害者でも実績残して生きる人はいっぱいいるし、お互い尊重出来る人達も沢山いるけど、一定数のその立場で甘んじて甘えてる人がいるのも事実、僕自身ももしかしたら甘えている方なのかもしれないけど。

 

現実的な所を見ると感情的な部分で健常者と障害者のケアがあまりなされてないような気がするのも事実。

 

健常者の場合は上司に相談するとか産業カウンセラーに相談するという選択はできるけども自己判断や周りからのアドバイス等でしか自分を守るしかないだろうし、くわえて障害者の場合は観察対象になりカウンセリングを月に何回か受けられて、なおかつ調子を見て休めたりする合理的判断が生まれるわけでその状態に対してのケアが受けられる。

 

働く事に意欲があってこれからの人生をきちんと受け止めて前向きになっていく人ならいいかもしれないけど、最初から一定の立場でいいという人達に対してのケアは妥当なのか、職場に依存するよりもまた一からリスタートする場所も必要なのではないかとも思う。

 

優遇処置をもらうのはどんなに時間かかっても自分で立ち上がってまた社会に参加して自分の人生を大切に生きるというものだと僕は思うし、その生きにくさのために誰かの人生を消費するのはちょっと違うとは思うから。

 

わかってほしいよとか理解してほしいよはわかるけど、今出来る行為をしてから次に進むというのは大事なのかなとも。

 

元気な時しか無理ならまず元気になれる場所に切り替えるのも勇気だと思うし、周りに何か言われても曖昧なまま佇むなら生きれる場所に行くのもありだとおもう。

 

僕らは社会に生かされているわけだし、上も下も考えるわけではないけど、カウンセリングも社会に属する事も時間という有限の世界で行われているのだからそこで何をするかを考えていけたらいいよねという話。

 

僕ら当事者は確かに生きにくさをもっているけど当事者じゃない人達にまで度が過ぎる重荷を背負わしていいわけじゃないので、そこらへんが解消できる何かを考えながら生きていけたらいいよね。

 

まあ偉そうな事言える立場ではないけど、能力の違いや弱さはあってもいいけど、自分のレベルで頑張れなかったりひたむきさを諦めてしまったらどうにもよくない結果にしかならないとは思う。